神器「寶」と楊貴妃渡来伝説パート(2)

        

<はじめに>

楊貴妃の馬嵬からの逃避そして渡来伝説は、唐時代もそして今日の日中の学者

間にも根強い学説が燻(くすぶ)っていた。

そして、日本の天草(新和町)と長門市(二尊院)の二か所に、楊貴妃伝説が

あり、現代の日中の学者や研究生グループが、ほぼ間違いないと考証していた。

本年、その二か所に足を運んだ。

そして、楊貴妃渡来伝説(1)で、獅子印「寶」と楊貴妃の渡来を推論した。

過去に解明したこの獅子印「寶」に対し、日本中の個々の学者・四大学会の役

員、只の一人として異論反論を唱えた先生はいない。

しかも、獅子印の「寶」が焼成不可能、人類史上未曾有の陶磁器であることを

日本を代表する研究者・更に、最高学会が認めた。

パート(T)では、馬嵬から長江、そして天草・長門市の二か所までの流転の

渡来までを詳細に考察した。
しかし、奈良時代から、「寶」を取得していたと想定した足利義満・信長までの

約800年の歴史をハイ・ジャンプした。

楊貴妃が、「寶」を携え、「字」地名の残る天草に漂着し、数カ月〜1年余、漂

着の報が大宰府に知られる処となり、陸路か海路で、長門市に漂着しそこで亡

くなったと推論した。

しかし、その後の約800年間、「寶」が何処に安置されてあったのか。

それを納得できるように推論しなくては、「寶」は前へ進めない。

楊貴妃と「寶」の行方は、当時の大和朝廷の政治情勢と無関係ではありえない。

それでは、このパート(2)で「寶」の歴史の約800年の空白を、平成承禎

の名に懸けて推論する事にした。

 

<其の一> 

大宰府」は大陸・朝鮮半島を睨む、外交・防衛を主任務とし、九州一帯の行政・司法を統括する政府機関であった。

また中国や朝鮮半島からの海外使節団接待する迎賓館(博多湾)なども所管していた。

九州沿海州一帯は、朝鮮半島と大陸の窓口であった。

755年に勃発した「安史の動乱」は、天平2年(758年)に帰国した渤海大使小野田守(おののたもり)により、大和朝廷に報告がもたらされた。

小野田守は大宰府小弐に2度任じられ、遣新羅大使・遣渤海大使など外交の官職を歴任する。

報告によると安禄山の反乱により長安が陥

大宰府

落し渤海が唐から援軍要請を受けたとの事である。

これにより当時の権力者・藤原仲麻呂は、反乱軍が日本および周辺諸国に派兵

する可能性を考慮し、大宰府弐官の吉備真備に、怡土城(いとじょう)の築城

を命じ警戒強化を図っている。

仲麻呂政権は、唐の対外影響力の低下を見越して、長年対立関係にあった、新

羅討伐の準備まで、していたとの事である。

しかし「恵美押勝」の乱で藤原仲麻呂が処刑され新羅討伐は中止された。

現代の安倍政権が警戒する習近平中国共産党・そして南北朝鮮半島同様、当時

の大和政権は大陸の唐と朝鮮半島情勢に、もの凄い、神経を尖らせていたので

ある。

<其の二>

それでは、楊貴妃渡来後の「寶」のキーパーソンである「吉備真備」の登場である

真備は、2度遣唐使として、入唐し、幸運にも2回とも無事、帰国を果たしている。

大和朝廷の逸材で、学者でありながら、最終右大臣まで登り詰めた天才学者であり、政治家でもあった。

真備は大宰府天満宮に『学問の神様』と祀られる菅原道真と並び称される天才であった。

唐では経書・史書・天文学・音楽・兵学など幅広く学んだ。

吉備真備

そして、天文暦書・「大衍暦経」1巻「大衍暦立成」12巻・日時計・楽器・音

楽書・弓・矢、その他多くの大陸の文化を、わが国に招来した。

のちに、東宮学士として阿倍内親王(後の孝謙天皇)の教師も務める。

また大宰府の次官を歴任し、「怡土城」の築城に当たる。

そして天平8年(764年)東大寺造営の長官に任命されている。

まさに大和朝廷の俊逸・大重臣であった。

特筆は、20代前半に717年・「寶」のキーパーソン安倍仲麻呂・玄ム等と入

唐し帰国(734年)するまでの、青春の17年間、彼等と切磋琢磨し苦楽を

共にした。

<其の三> 

遣唐使「安倍仲麻呂」もまた、「寶」のキーパーソンである。

仲麻呂は若くしてその学才を謳われ、養老元年(717年)吉備真備と共に長安に留学する。

二人は青雲の志を胸に、遣唐使船で入唐を果たした。

仲麻呂は、唐朝の最難関の科挙試験に合格し、その才能により玄宗皇帝に重用され「朝衛」の中国名まで許され昇進を重ねた。

玄宗に重用されれば、当然高力士や楊貴妃・楊国忠などとも親しく接した事は間違いない。

安禄山すら養子にした好奇心旺盛で天真爛漫な楊貴妃である。

安倍仲麻呂

当然仲麻呂にも、気さくに言葉をかけただろう。

唐朝の百官から見れば仲麻呂は、あくまで、和国・異国の人間である。

徒党や派閥を作って策を巡らす、政敵にはなりえない。

であるから、皆、胸襟を開いて、裏情報のヒソヒソ話も水の流れのように、集

まっただろう。

仲麻呂は731年、司経局校書として任官、主に文学畑の役職に就いた。

その為、李白・王維・他、唐代を代表する各界名士とも交友した。

注目は、「寶」の存在を歌二題で詠った歴史の証人杜甫とも交流があったとの事

である。

「寶」の韻文は、現代の超スーパーコンピューターでも創造と解析不可能な太

極の文言である。

印文奇跡の九文字は天才・神秘の道師・司馬承禎が考案した太極宇宙である。

その「寶」太極の韻文を理解する玄宗である。

側近の高力士もまた広い教養があった。

仲麻呂は留学以来、帰国は叶わなかったが、在唐35年である。

泰山封禅の儀・「寶」の世紀の大祝典を目の当たりにしている。

そして唐朝の政治情勢・楊貴妃の事、安禄山の事、楊国忠まで、見るもの、聞

くもの、会う人、まさに水を得た魚、胸躍る、官僚人生を送っていたのである

 

<其の四>

天才・吉備真備もまた仲麻呂と一緒に、養老元年(717年)に入唐し、17年間もの間、ありとあらゆる知識を貪欲に摂取している。

2回目の渡航は天平4年(752年)入唐、天平6年(754年)に帰国する。

注目すべきは、「寶」完成が742年で元号あらため、まさに「天寶」である。

2回目の入唐は「寶」完成から10年しか経っていない。

まさに、大唐の黄金期その真只中である。

玄宗皇帝は翌年の743年に「寶」安置の「玄元皇帝宮」

を「太微宮」と改称、昇華させている。

更に744年には「年」(ねん)の呼称を、史上初めて「載」(さい)「いただく」

と改称している。

神器「寶」を「承天の大寶」と銘々したのが、751年である。

奇跡の神器「寶は、天から承り戴いた」のである。

まさに真備が入唐した前年である。

そして、唐朝は神器「寶」制作の有徳の皇帝として、玄宗に以下の尊号を贈っ

ている。

開元元年 (712年)      開元神武皇帝

開元27年 (739年)     開元“聖文”神武皇帝

天寶元年   (742年)    開元“天寶聖文”神武皇帝

   *「年」改め、史上初めて「載」とする

天寶7載   (749年)    開元“天寶聖文”神武応道皇帝

天寶8載   (750年)    開元天地“大寶聖文”神武徳証道皇帝

天寶12載   (754年)  「大聖祖高上大道金闕玄元天皇大帝」

重ねて真備の入唐が752年である。

神器・太極「寶」完成の興奮が冷めやらぬ、盛唐の黄金期である。

「寶」完成の偉業達成を祝して、それまで、玄宗への尊号は、呆れるほど献呈

されている。

上記尊号は唐朝百官が朝議で奏上し勅を発し、天下に布告しているのである。

(注・「寶」の存在を知らず、「安倍仲麻呂の夢」に3か所載っていたが、「寶」

の存在を知らない著者は、この尊号の意味を理解しておられなかった、致し方

ない)

神器「寶」完成に30年、延人員何千万人を投入した、大唐の国家プロジェク

トであった。

まさに、神器・太極「寶」完成743年以来10年間、唐朝は「寶」の祝賀一

色であった。

元号を天寶と改めてから度重なる尊号の布告である。

仲麻呂も間違いなく祝賀の朝議に参列した筈である。

百官の奏上文を聞かなくても、この尊号“大寶聖文”が何の意味か分かった筈

である。

遣唐使がもたらした、正倉院の天平の精華美術工芸品に獅子が龍を圧倒し描か

れて有る。

唐代の職工が「寶」の実物は見なくても、あらゆる工芸品に獅子を装飾したの

である。

いや「寶」制作に関わった何万人の陶工からも獅子の造形は漏れ伝わった筈で

ある。

正倉院文物の中で、それを如実に物語るのが「寶」同様、獅子が反転している

紫檀金鈿香炉である。

本年12月、上野国立博物館で法隆寺国宝展が開催されていた。

孝謙天皇が献物した聖武天皇の遺品の中に同種の香炉があった。

その香炉にも獅子が同様に鋳造されてあった。

我々のような凡夫ならいざ知らず、安倍仲麻呂なら、天寶元年の大祝典に玄元

皇帝廟に奉納された神器は「璽」印改め「寶」の国璽と喝破したであろう。

いや、延人員何千万人を動員し、30年を費やし、完成なった神器・太極「寶」

の“世紀の祭典”である。

「寶」制作の最高責任者、玄宗皇帝が祝典の百官、そして大群衆に向かって、

宗廟の「寶」を両手で差し上げて、完成を高らかに宣言した事も十二分ありう

る。

陽気な玄宗である。

自慢したくて自慢したくてならない、大唐の神器・太極「寶」である。

そんな喜ぶ玄宗の様を、何かの著書で目にし、初版の「寶」本に記した。

和人の仲麻呂である。

徒党を組んで、唐朝を脅かす事は皆無である。

最難関の科挙試験に合格した、玄宗も認める日本国を代表する英才である。

玄宗は、仲麻呂に、謎かけをして「寶」の全体像を楽しみながら問答を交した

事も度々であったろう。

「寶」の獅子は、有徳の帝王、黄帝伝説の「白澤」である。

玄宗からは人畜無害の英才仲麻呂である。

話し相手として楽しみな、最上級の客人である。

問答の中で、「寶」を鎮護する紐は獅子と、漏らした可能性も相当な確率である。

もちろん、九文字を考案した、玄宗皇帝の師・司馬承禎の話しにも及んだであ

ろう。

印面九文字は、これだけは話さなかったのは確実である。

いや、教えたとしても、この九文字に秘められた太極の神秘は仲麻呂と云えど

も無理であろう。

玄宗は謎かけ問答で、英才仲麻呂の知力を楽しんだであろう。

それはさておき、世紀の祝典の為の長安から洛陽への行幸は、玄宗皇帝・楊貴

妃・女官・唐朝の百官・神官・道教道師・楽隊・近衛兵・陶工集団・まさに絢

爛たる行幸であったろう。

そして、杜甫が天まで聳(そび)える大伽藍と謳った・玄元皇帝宮での奉納式

典は、絢爛かつ荘麗であったろう。

お神輿に慎重に担がれた宗廟の神器は、実物は見る事は出来ないが、恐らく紐

は獅子が鎮護する、両手に載るほどの小さな印鑑の神器である事は想像がつく。

本殿奉納式典には、混成之樂(太極の調べ)太一之樂(天神の調べ)が楽隊に

より、演奏され、そして当然、獅子舞も繰り出された。

仲麻呂は、間違いなく「寶」の紐は、伝説の獅子「白澤」と想像できたであろ

う。

恐らく知る術のなかったのは、印面の「日界・月界・太上老君勅」太極の

文字」だけである。

   

<其の五>

    

      玄宗皇帝    楊貴妃       安禄山

安倍仲麻呂と吉備真備2人の天才が717年〜752年、正に18年振りに再

会している。

「寶」の興奮冷めやらぬ盛唐の最盛期である。

真備は当然、真っ先に、確実に仲麻呂に会いに行った筈である。

仲麻呂もまた誰よりも遣唐副使の真備に会いたかった筈である。

青雲の志で共に入唐し、英才同士が切磋琢磨した仲である。

確実に、二人が、三日三晩、酒酌み交わし夜通し、日本と唐の情報を交換した

であろう。

真備が入唐した二回目の約3年間、仲麻呂から刻々もたらされる情報は、あら

ゆる面に及んだ。

そうそう忘れていた、玄ムも入れて、滞在中は定期的に情報交換の飲み会であ

ったろう。

唐朝の政治体制・安禄山と楊国忠の反目・安禄山謀反の可能性・玄宗皇帝の近

況・楊貴妃の美貌・周辺諸国の情勢・その他あらゆる情報をもたらしたであろ

う。

とりわけ、仲麻呂の天寶元年の「寶」の祝典とそれに追随する以下の変革は熱

弁であったろう。

★元号を天寶にした事。

★洛陽と長安二京制にした事。

★「年」を「載」にした事。

★玄元皇帝廟を玄元皇帝宮にして、更に最終太微宮にした事

★玄宗の尊号の矢継ぎ早の加上。

 

まさに「寶」完成以後の天寶元年からの名称、慶嘉の大変革。

真備に対し仲麻呂が駆け引きや、隠す必要など一切無い。

堰きを切って話す、「寶」の祭典を真備は強烈な関心と、脳裏に刻むものがあっ

た事は間違いない。

神器・太極「寶」の祝典は「泰山封禅の儀」以上の大唐始まって以来の“世紀

の祭典”である。

「寶」とその大祝典の話だけで二人の会話は.夜を徹したであろう。

真備は仲麻呂との連日に渉る夜通しの話しで、入唐の目的の80%以上をクリ

アしただろう。

であるから、二回目の入唐は、仲麻呂からの密度の濃い情報収集で、時間的に、

相当な余裕が生まれた筈である。

それと今一つ、科挙に受かり、玄宗の側近にまで昇り詰めた仲麻呂である。

唐朝での自分の栄達を真備に知ってもらうには、真備を玄宗に直接拝謁させる

事である。

その席で玄宗皇帝の自慢の絶世の美女、楊貴妃も確実に紹介されたであろう。

まさに仲麻呂は鼻、高々であったろう。

玄宗皇帝と高力士二人の信任の厚い仲麻呂である。

合わせる事に、何の政治的障害も無い。

間違いはない。

天才同士、肝胆相照らす仲である。

真備が目的を果たし、帰国したのは「安史の乱」勃発の前年である。

仲麻呂の話は、「安史の乱」の原因となった、安禄山と楊貴妃との怪しき仲、長

安発売の「文春」を賑わす、大スクープまで、漏らしていた筈である。

安禄山と楊国忠の確執、その他唐朝の裏情報は最大限、包み隠さず真備に話し

たであろう。

日本を代表する英才、仲麻呂と真備である。

もし乱に及べば、日本国に重大な影響を及ぼす可能性がある。

そのような事態も念頭に、二人の談義は白熱であったろう。

<其の六>


        熊本天草           長門市 二尊院

「安史の乱」が勃発したのが、真備が帰国した一年後、755年である。

遅れて758年、小野田守が渤海から帰国して「安禄山の乱」の報がもたらさ

れた。

既に天才戦略家である真備は、その可能性を既に想定していた。

其の頃、小野田守は真備の直属の部下として大宰府で任務に就いていた。

真備は兵法を極めた戦略家であるから「怡土城」(いとじょう)の構想は着任早々

から頭に描いていた。

その為、築城の着手は素早かった。

「安史の乱」勃発が755年で、真備が、築城のメドをつけて、東大寺造営の

長官として転勤する764年まで、8年である。

楊貴妃が乱勃発後、中国で1年潜伏し、日本に向かったとしても、7年の期間

がある。

楊貴妃一行が天草に漂着し、現在の新和町の山里深く隠れ住んでいたとして、

も、島民たちの報が大宰府に届くまで、およそ半年から2年は要しただろう。

それでも、まだ5年あり、十分な年数である。

真備は仲麻呂から長安で楊貴妃を紹介されている。

英明な真備である。

島民に噂になるほどの、美貌の女性が天草に漂着した。

しかも報告によれば、服装と言葉で日本人でないことは明確との事である。

乱は安禄山と楊国忠である。

そして安禄山が楊貴妃に執着している、唐代の「文春」情報も仲麻呂から詳し

く聞いていた。

玄宗の貴妃としての身分証明品の「寶」を大宰府の使者に渡し、真備が見れば

即座に楊貴妃と判断したであろう。

30数年前、拙者が「寶」を見た瞬間、中国の5本の指に入る国宝級の陶磁器

と喝破した。

また何十年間「寶」を支持戴いた京都藤井有鄰館・藤井善三郎館長も一見して

驚嘆し、その未曾有の価値を喝破した。

東洋陶磁学会竹内順一常任委員長もまた、焼成不可能、地球上に一点もない陶

磁器と喝破した。

「寶」を心眼で喝破出来ない関係者は机上の学問、二流で有る。

遣唐使は大阪・博多の住吉神社の水神に祈願して、渡航する。

成功率5割以下の命がけの渡航で、真備はしかも2回も入唐した。

死線を潜り抜けて来た者だけが喝破する世界である。

獅子印「寶」を手にした真備は即座に、全てを察知したであろう。

真備程の人物である、印面の欠損と獅子の両足の皹(ひび)を見て、乱の状況

の粗方を想像したであろう。

しかし大宰府の実質上の責任者と云えども、日本国と大唐との高度な政治問題

である事は明らかである。

真備といえども、朝廷に処遇の判断を仰がなければならない。

貴妃の証拠品「寶」と、認めた書状を大宰府から大和朝廷まで便は急いだ。

予測であるが、瀬戸内の海路でも、約10日、往復20日はかかるだろう。

そして朝廷内の判断でも10日、最低一ケ月半は要するだろう。

朝廷から届いたとして、大宰府から天草まで一週間は要する。

<其の七>

それでは、天才真備は、大宰府に届けられたこの「寶」の韻文「日界・月界・

太上老君勅」を見て解読・理解できたのか。

九文字の幽玄に秘められた太極の秘密、それだけは、天才真備でも容易には解

けまい。

勿論天才真備は韻文だけは一発で解読し、これが玄宗皇帝の神器と即刻喝破し

たであろう。

今から約35年前、床の間に鎮座する獅子の神秘的御姿を観て、一目でこの

獅子印が中国の片手に入る国宝と喝破した。

しかし、「寶」を手に入れて、即座に窮したのはこの韻文の解読であった。

無知文盲の愚生に当然分かる筈もない。

しかし「寶」の恩師と仰ぐ、故黒川総三先生は、手にして一発で解読された。

  

そして、“この印の文言はこれ以上のない、最高の文言である”と語気を強めて

速断された。

それらの経緯は初版の「寶」本に記してある。

師・黒川先生は万葉集の研究家で漢字学・易と陰陽五行思想研究の大家であら

せた。

初版の「寶」本に驚愕なされた吉野裕子博士も同様である。

この九文字の韻文を見て、現代の篆刻家でも即刻解読出きる先生は少ないであ

ろう。

取り分け、九文字中央の「老」の文字は、現代の篆刻辞典にも載っていない“

字”である。

当然現代・篆刻辞典に載せねばならない。

「寶」発見により日本最大の大漢和辞典、篆刻辞典も補充は急務である。

それはさておき、真備は“陰陽道の聖典”「金鳥玉兎集」(きんうぎょくとしゅ

う)を唐から持ち帰り、常陸の国筑波山麓で安倍仲麻呂の子孫に伝えたとある。

金鳥とは日(太陽)玉兎(月)の事で「陰陽」を表す。

この「金鳥玉兎集」は陰陽道の秘伝書であったという。

真備は仲麻呂の子孫と云わる安倍一族に、この陰陽道の秘伝を伝授したとある。

定かではないが、その子孫が約150年下った平安期の陰陽師、あの有名な安

倍晴明との事である。

中央「太上老君」は、唐祖と仰ぐ「老子」に献呈した尊称である。

「勅」は天子・皇帝の専用語である。

真備は陰陽五行思想を極めた当時の第一人者であった。

真備は黒川先生同様、この印面の九文字を見て、「寶」を携えてきた報告の女性

は楊貴妃と即座に理解しただろう。

太極、幽玄の神秘解読は、まさに日本で指折る阿呆しか無理である。

韻文解読は、日本一の阿呆の証明書であった。

 

<其の八>

大宰府からの報を待つ間、楊貴妃の心は、深い闇にあった。

自分は逃亡者の身である。

高力士も陳玄礼も絶対に私を逃したとは、口が裂けても言えまい。

であるから玄宗は私が馬嵬で死んだと思っている。

楊貴妃にその後の戦局はわからない。

怒涛の勢いの安禄山の勝利の確率は90%以上であろう。

もし生きている事を安禄山が知ったなら、間違いなく軍を差し向けるであろう。

もし自身の存在が大陸に知られた場合、高力士・陳玄礼その他に咎めは及ぶ。

恐らく日本国は高度な政治判断が求められるであろう。

むしろ、私を始末した方が、外交上得策と考えるかもしれない。

殺さないまでも、外交上の最重要問題に浮上することは、自身でも分かる。

身の証として「寶」を渡し、既に自身の所在は大宰府に知れてしまった。

大宰府からの連絡は一ケ月以上経ってもまだ来ない。

ここは天草を払って、違う場所に身を移そう。

一緒に漂着した仲間と相談し、一行がそう思ったとしても不思議ではない。

後事を託し、女官一人だけを残し、船で天草を立つ決断をした。

新羅か唐か、それとも大宰府か、天命に身を任せた楊貴妃のみぞ知るである。

そして半月後、嵐に合い現在の長門に漂着し、あえなく亡くなったのである。

当然、孝謙天皇は楊貴妃渡来も「寶」の事も、高度な政治判断で、すべてを秘

した。

正解である。

<其の九>

神器・太極「寶」は、遂に吉備真備の詳細な書状と共に、孝謙天皇の元に届け

られた。

真備が帰国した時、孝謙天皇は唐の情勢をつぶさに聞いていた。

749年孝謙天皇は父・聖武天皇から譲位されている。

真備は孝謙天皇の家庭教師でもあった。

であるから唐のあらゆることを知らされていた。

その話の中で、天寶の大祝典はまさに興味津々の話であった。

そして奉納された神器は恐らく、獅子の紐をした璽印(寶印)であろうとの、

真備と仲麻呂の推論に納得であった。

 

  

        東大寺            正倉院

繰り返すが、勿論、以下の事も報告を受けている

★元号を天寶にした事。

★洛陽と長安二京制にした事。

★「年」を「載」にした事。

★玄元皇帝廟を玄元皇帝宮にして、更に最終「太微宮」にした事。

★玄宗への矢継ぎ早の尊号。

そして安禄山と楊国忠の確執も報告を受けていた・

その報告の通り、小野田守から安禄山が長安に攻め入った反乱も既に届いてい

た。

そして、楊貴妃と称する女性が天草に漂着し、玄宗皇帝の貴妃の証として

大宰府の真備から書状と共に獅子印が届いた。

全幅の信頼を置く真備の報告書と獅子印である。

「寶」の箱蓋を開け、包んだ布を払った瞬間、電撃が走った。

と同時に獅子印を観る孝謙天皇の時間が止まった。

言葉はいらない、全てを察した。

遣唐使が持ち帰った父聖武の美術工芸品に多くの獅子が装飾されてあった。

中国皇帝の象徴は龍なのに獅子の数は龍を圧倒していた。

(現代の正倉院研究書に、そのことについて言及した著書を私は知らない)

謎は瞬時に解けた。

楊貴妃に間違いは無い。

獅子印の印面の欠損と獅子の両足の皹(ひび)は戦乱か旅路のアクシデントで

あろう。

それでも獅子の造形に息を呑む。

女性であるが、さすが孝謙天皇である。

<其の十>

孝謙天皇の父・聖武天皇は7才で父を亡くし、母が心的障害に陥り何十年間会

っていない境遇で育った。

即位後も、729年長屋王の変、そして740年藤原広嗣の乱がおきる。

在位中、地震・飢餓・疫病が流行し遷都を繰り返した。

聖武天皇とその光明皇后は、熱心な仏教信徒で東大寺大仏を建立し、国分寺を

全国に展開した。

多事多難な天皇であった。

     

     聖武天皇     光明皇后     孝謙天皇

それだけに、人間を見る目、美を観る目も厳しい。

先般、正倉院宝物が一般公開された。

公開された品々は、亡くなった聖武天皇(756没)の49日に、光明皇后(7

60年没)が追善供養の為、献納したものである。

大仏建立は光明皇后が女帝・則天武后憧れ、武后に習ったと云われる。

いずれにしても、聖武天皇の収蔵品を見ると、大陸唐への関心は物凄いものが

ある。

正倉院以外、光明皇后は、興福寺・法華寺・新薬師寺にも遺品を献納したと伝

わる。

光明皇后が献納した仏教寺院の献物帳に獅子印「寶」が記載されて有るか否か、

いずれ関係者の報を待ちたい。

 

東大寺献物帳           法隆寺献物帳

<其の十一> 

光明皇后は聖武天皇と共に、東大寺大仏建立を推進した。

光明皇后の娘、孝謙天皇は、むかし教師であった吉備真備を右大臣に据え、道

鏡と政治を推し進めた。

そして、聖武天皇が崩御したあと、光明皇后と娘・孝謙天皇は聖武天皇の

遺品を正倉院他、奈良の東大寺はじめとする七大寺に献納している。

七大寺は東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。

その七大寺には献物帳(宝物帳)がある。

また真備・仲麻呂等と唐へ渡った玄ムの建策により、聖武天皇は全国諸州に、「国

分寺」建立を推し進めた。

しかし国分寺は平安時代中期以降廃絶した寺も多いと云う。

孝謙天皇は国分寺にも多くの聖武天皇愛蔵の遺品を献納したと云う。

現代も昔も女性が宗教に嵌るのは、女の性である。

光明皇后・孝謙天皇は熱烈な仏教信徒であった。

正倉院文書は整理の段階で巷に流出したものも多いと云う。

献物帳自体が、兵火・地震・火災等々・歴史の風雨に曝され、散逸したものも

あるとの事である。

七大寺以外、注目は鑑真和上の唐招提寺である

754年鑑真から孝謙は菩薩戒を受けている

奈良時代は、仏教を国造りの基にした絢爛たる興隆期であった

 

今一つ光明皇后ゆかりの日本総国尼寺の本山に法華寺がある。

地震・火災・兵火に遭い、豊臣秀頼と淀君の寄進で再建とある。

神器「寶」は漢文化の歴史を覆す未曾有の至宝である。

残った献物帳、その他に獅子印「寶」が記載されているか、今後の関係者の総

力を挙げた研究を待ちたい。

 

<其の十二>

 

     武蔵国分寺           唐招提寺

僧・玄ムも真備・仲麻呂と入唐し、19年間、苦楽を共にした。

玄宗皇帝に招見され、紫の袈裟の着用を許された、遣唐使の俊逸であった。

経論五千余巻をおよび諸仏像を招来、興福寺に法相宗を伝えた僧でありながら、

真備と共に大和朝廷の中枢で活躍した、

聖武天皇の母親の鬱病を治し、孝謙天皇が推し進めた、全国60州の国分寺創

建にも関わった。

「寶」は正倉院・七大寺・法華寺国分寺に納められたのか、玄ムも「寶」の

行方のキーパーソンである。

最後に加えるなら孝謙天皇が鑑真和上の為に、創建した唐招提寺も候補に入る。

以上愚生の念力も、(かす)んできた。

終わりに「寶」の旅路に関係ないが、楊貴妃に関わる気になることを一つだけ

付記しておこう。

それは真備の母親の姓が楊貴氏とある。

楊貴妃渡来伝説に纏(まつ)わる真備の残影である。

それ以上この件は止めておく事にする。

時代を下って、上記宝物庫に納められてあった獅子印「寶」を、足利義満・織

田信長・関白秀吉・前田利家、家康、誰が所望したかは、「寶」のみぞ知るであ

る。

これにて、パート(1)の毛利・島津藩のルートはゼロではないが、ほぼ消え

た。

以上、今後の関係者の研究を待望するものである。

 

    

 

<あとがき>

「寶」と楊貴妃渡来伝説@で、馬嵬から「寶」を携え、楊貴妃が日本に漂着し

た史実を考察した。

そして足利義満以降、前田富山藩までの経路の大脈・大本はパート(T)で解

明した。

しかし、@では天草・長門の二尊院漂着以後、約800年の歴史を空白とした。

そして、再びその空白を埋めるべき、パート(2)に挑戦した。

神器・太極「寶」の韻文は、中国・茅山派12代宗師・司馬承禎が、現代のスー

パーコンピューターでも解析と創造不可能な、奇跡の九文字であった。

そして獅子陶印「寶」は、地球上に一点もない、焼成不可能な奇跡の陶磁器で

ある。

この人類史上、未曾有の「寶」本体が、全てを解き明かしてくれた。

歴史は人間の心が綾なすのである。

一国の衰亡の歴史は、政治の中枢、頂点に君臨する者たちの、危機管理と筆舌

に尽くしがたい苦悩、己との格闘の中に生ずる、必然と偶然が絡み合って、織

りなすものである。

玄宗皇帝・楊貴妃・高力士・安禄山そして阿倍仲麻呂・吉備真備・玄ム・聖武

天皇・光明皇后・孝謙天皇。

歴史を彩った者たちの心の綾が、歴史を織りなすのである。

人類の至宝・神器・太極「寶」の1300年の旅路は、まさに必然と偶然の狭

間(はざま)に流れる、宿命の旅路であった。

現代日本で、愚生の「寶」本を理解できた先生は指を折る。

「寶」本、そしてパート(1)(2)に枝葉な錯誤があったとしても、歴史の大

脈・大本に深い自負がある。

太極「寶」の奇跡の韻文に匹敵する、自作の『和漢太極「寶」歌』は、平成承

禎を拝命した愚生の矜持である。

約1300の歴史の彼方より日本一の阿呆めがけて放たれた「寶」解明を命ず

る勅令の矢文、これにて大任は果たした。

先人の多くのお陰である。

終わりにあたり、今後、関係者による献物帳・その他の捜索に期待したい。

同時に、(1)(2)のご批判を心待ちにするものである。

愚生の30数年、確実に10万時間を費やした旅路は、これにて終えた。

人類の至宝、神器・太極「寶」の処遇は、現代の仲麻呂・吉備真備に託すもの

である。

歴史・文化は人類共有の財産である。

日本国の威信を懸けて、歴史は開かねばならない。

                                                                                                             

 

 

 

『和漢太極「寶」歌』

 

  

この『和漢太極「寶」歌』は、太極奇跡の韻文同様、未来のスーパーコンピュ

ーターでも、解析と創作は不可能な奇跡の歌である。

貴方はこの歌を解けるか、解けたとして匹敵する歌を詠めるか。

この歌は、日本一の阿呆の矜持であり、「寶」の壮大な史実の裏づけでもある

 

<参考資料>

インターネット

@吉備の真備・A安倍の仲麻呂・B聖武天皇

C遣唐使・D正倉院・E正倉院文書

F藤原仲麻呂の乱・

G献物帳

(聖武天皇の収集した珍宝を光明皇后・孝謙天皇(娘)二人が東大寺他・七大

寺に献納したと有る)

H法隆寺献物帳・

(天平勝宝8年(載)〜★国家珍宝帳★種々薬帳★屏風花氈帳★王真蹟帳

★藤原公真蹟帳★法隆寺献物帳の6通が現存し、★法隆寺献納帳は東京国立博

物館が所蔵)

I続日本紀J続日本後紀・K日本紀略

L藤原百川

M東山御物―足利将軍家が見た美の復元

N水鏡

O玄ム

<参考文献>

@真言宗二尊院楊貴妃伝

A天草楊貴妃渡来伝説

B★正倉院宝物全写真集(毎日新聞社)

C原色日本の美術4正倉院   小学館

D楊貴妃渡来は流言ではすまない@A著・蓑虫

E孝謙・称徳天皇  著・勝浦令子

平成2912月吉日