サラバ東京

 

そうそう、この東京にいるとき妻の父親が亡くなり一度帰郷している

そのついでに10年以上続けている石動山へのコケ狩をしている

だから義父が亡くなったのは約20年前の9月の20日前後に間違いは無い

通夜の席で兄弟が土地に絡む問題で争いになった

若き頃精神を病んだ下の弟の方が私に同調を求めてきた

上の兄が学校の体育の先生で柔道の顧問であった

私は弟の言い分に理解を示した

心を病んだこの弟が兄弟姉妹の中で一番まともな人間であった

マトモな人間がおかしく見られ、まともで無い人間が正常と思っている現代社会の縮図で

あった

思い出したついでに記しておこう

義弟は20代に精神を病んだ

23・4才の頃であろうか、義弟は岐阜の各務原市の警察に保護された。

私は頼まれた義父を車に乗せて福井の九頭竜川沿いに車を飛ばし長良川に沿って迎えに

行った

そして勤めていた社長宅に義父とともに夜遅くお詫びにいった

二人の兄は何十年間殆ど弟に手を差し伸べてはいなかった

義弟は柔道の顧問をしている兄に強制的に入院させられたと私に吐露した

七尾の病院に私は2度見舞った

20代の頃、腰のベルトをせず腰紐をしていた。

マトモな服も着ておらず、私の姉の夫の古着を何着も持って行った

父親の手伝いだけで服を買うお金が無かったのである

また、40代前後の頃、離婚した女性と同棲した時も、祝いに色々な生活道具をもって

羽咋の市営住宅に駆けつけた

だから私が離婚の決意した事を義弟告げた時、私の言う事に従えばよいのに・・・と一言

漏らした!!!!!!!

この弟だけは車のドアまできて、深々と頭を下げた

私がどれだけ妻の実家を助けたか知っているからである!!!!!!!!

義兄二人は話す対象外の人間であった

姉妹もそうであった・・・・・・・観えなかった・・・・・・・

痛恨の極みである!!!!!!!!

また亡くなる2・3年前の義父の顔は、顔を背ける程のデスマスクであった!!!その義

父が本当のデスマスクになった・・・・・・。

10年間千里ブロックの取引で、私が生活を支えたと言って過言では無い

ヨーロッパ旅行も私がお金を出した

7年間氷見の鰤を義父に送った

最後パテントの契約代金100万をくれてやった。

招待した我々の結婚式にも来なかった

二人の孫の誕生にも一切来なかった

神棚に埃が積もり、仏壇に蜘蛛の巣が張っていた

墓は墓地で一番小さく土台が傾いていた

一度食堂でうなぎをご馳走した・・・ただ(お金を出さない)のうなぎは美味しいと、能

面を崩して言った

取引もしていた関係で2百回以上は訪ねている、葬儀以外ただの一度も親戚縁者・知人の

姿を見た事が無かった

部落の人もである・・・・・・

35年間正月も祭りも一度も招待は無かった

義兄2人も同じである

10年程経って私が氷見の祭りに羽咋へ義父を迎えに行って初めて娘・孫の家に来た

当時の高度成長期にも親から引き継いだ古家のひさしも自分で修理する

田畑を全て売り払い、生涯家一軒建てる事も無かった

薄幸な幼少期であったと聞く・・・振り返って思うに理解し難い人間であった

その娘であった・・・・・・・・・

厭な事を思い出した

死者と一家を悪く言うわけではないが、心貧しき者達であった

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いずれにしても明けて1月の半ば、サラバ東京であった

私に最早迷いは無かった

                                         平成1919