ゴミ戦争と出会い

 

椎茸販売と忘れてならない思い出がある

それは市のゴミ回収の、民間委託の競争入札に参入した思い出である

何年頃であったか記憶が曖昧で、先ほど市の環境課に問い合わせた

昭和53年であると言う

40年卒、会社に8年、呉服に5年であるから、呉服からブロックへのまさに移行期

既にパテント販売に入っていた重層の時期である

あらゆる事に挑戦したい時期である

若い商売仲間20数名と「氷見市新生協議会」を立ち上げた時期でもあった。

立ち上げの中心は私であった!!!!!!!!

その仲間であったルームイン金田・鎌仲建装・中野自工・灘浦荘、他何人もが30年経っ

た今も立派な経営者として活躍している

その中に運命の出会い、故能田氏がいた。

私より1歳年上の幼馴染であった

幼馴染ではあったが、子供の頃は町内がお隣で、それほどでもなかった

中学の頃は、能田さん宅へ何度か遊びに行った

高校も違う、私は神戸、そして伏木のサラリーマンで12〜3年振りの、親交であった

今から思うに、私のノー天気な上昇志向に興味があったとしか言い様が無い、

また相性が合ったと言うより、弟を見るような気持ちであったろうと思うのである

当時能田さんも、脱サラをして食品会社を立ち上げて間もない頃であった

その能田さんが、氷見市がゴミの民間委託をするから、一緒に入札に参入しようと誘ってくれた

記憶ではオイルショックの後の社会不安が当時の氷見市にまで広がっていた

そのため、利は薄くても確実な仕事が皆欲しかった

入札には、会社個人を問わず市内の幅広い層が参入してきた

建設会社、運送業者その他20以上の会社個人が参加するとの噂で持ちきりであった

能田さんの誘いに一も二もなく即乗った

当時の市長は東大卒、北陸農政局長を経た茶谷市長であった

参入者は皆、市会議員それ以上の政治家を後ろ盾に画策してくるとの噂が飛び交った

その頃の私の頭は能田さんと比べれば子供同然であった(ホント)

いや能田さんの頭は、われわれ通常の人間と脳構造が違っていた

私がかくも人間の脳味噌が違うのかを認識させられた、生まれて初めての衝撃的出来事で

あった

能田さんは、子供の頃重度のドモリであった

十代二十代の青春時代私等には想像できない苦悩をされた・・・・・。

話す練習で咽から血がでたそうである

また、精神的落ち込みに一時あらゆる宗教の門を叩いたそうである

そんな二人は今は亡きO市会議員を担いだ

そのO市会議員は氷見市が誕生してから最も教養があった市会議員と今も思っている

その方は、大阪選出の元大蔵大臣、塩崎国会議員と慶応大学の同級生であった

このO市会議員との出会いも私に取って大きな出来事であった

生まれて初めて人間の品格の違いを知った

2年前不帰の人となられたが、その先年自分史を自費出版なされた

拝読し改めてO先生の凛とした人生に感動した

いずれお二人の人柄は時間があれば是非「承禎の風景」で紹介したいと考えている

それは横に置くとして、能田さんの市議会議員の人物鑑識眼に驚いた

市議会の会派と勢力図、議員個々の力量、当選回数、過去の得票数、後援会組織あらゆる

事を知っていた

そして、入札価格の算定の緻密さに驚かされた

私の丼勘定と余りにかけ離れた、緻密さ・・・・・目を見張った

私と能田さんは他市町村の民間下請け業者を見学することにした

落札した場合、現実にどんな点に注意し、仕事をしなければならないか

色々な事が知りたかったのである

出来れば、入札金額を教えてもらえないか、虫の良い考であった

であるから、県内ではなかなか難しいだろうとの考えで、福井の鯖江市、石川の加賀市

その後滑川市を訪ねた

会社名は忘れたが、若い我々を迎えて鯖江市の社長は気さくに何でも教えて戴いた

勿論入札価格も!!!!!!!!

今、キーを叩いていて、その社長の顔がオボロゲに思い浮かんできた

帰ってきて、更に私は市のゴミ収集係の現場責任者に頼み込んで、実際に車に同乗し体験

して見ることにした

恥ずかしかったが、挑戦である。知人と出会って何してる????????参った

そうこうして能田さんと二人で2〜3ケ月であろうか、毎日毎日検討に検討を重ねそして

入札が迫ってきた頃のある日、能田さんが私に言い放った

お前「ゴミ集めの仕事とは何か」一度自分で深く考えろ・・・・・・・!!!!!

     ・・・・・・・・・・・・と!!!!!!!

このままでは、入札を断念すると・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

能田さんと行動を共にして、私は自分の仕事に対する甘さ、考えの浅さを嫌と言うほど知

らされた

私はその一言で能田さんの真意を察した

     ・・・・・・・・・・・・

それは、私と言う人間に対する真の思いやりである事を

これではパートナーとしてやっていけない・・・・・・

それが根底にあるのが、分かった

私はその晩の真夜中、一人部屋の壁に向かい座禅の格好で足を組み、「ゴミ集めの仕事とは

何か」と沈思黙考した

生まれて初めて自分の心に自問自答を開始したのである

一時間程であったろうか・・・・・・!!!!!!

私はハタと1つの結論に達した

その時生まれて初めて目からボロリと鱗が落ちた

まさに目から鱗が落ちるとはこの事である

薄い目の膜がボロリと落ち剥がれたのが分かった

その時の思考の順位はこうである

●ゴミ集めとは何か

・・・・・・・・・

★ゴミ集めとは 単純にゴミ集め、・・・・・

★ゴミを集めて、その報酬を戴く仕事

     ・・・・・・・・・・・・・・

いや、報酬はどの仕事も同じである

ゴミ集めは・・・・・・・・・

★@いらなくなった生ゴミその他を回収する事である

★Aその目的は市全体のゴミを回収し、市全体を奇麗にする事である

★B町を美しくする。清潔にする事である。

★C市を奇麗に掃除する最終段階である

     D氷見市は観光の町である

     E清掃は観光氷見にとって大切な仕事である

     F清掃の仕方、仕上がり、清潔度は人によって違う

     G集積場を片付けた後の見方は、人によって評価は違う

     Hまして相手は氷見市民全体である

     I一人一人聞いて回る訳にゆかない

     Jそれでは、回収あとの結果の評価するのは自分自身でしかない

     Kそれには、結局毎日毎日の努力しかない

分かった

●ゴミの仕事=努力・・・・・!!!!!!!!それが私の到達した結論であった

悪い頭で、能田さんの心の底からの誠意に答えるための、私の生まれて初めての真剣な自

問自答であった

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・

ゴミ=努力

その次の朝、何か自分が生まれ変わったような気がした

●初めての脱皮であった

私は能田さんの工場へ急いだ

彼が私の晴れやかな顔を見て、答えは出たかと???!!!!!と問うた

私はおずおずと、小さな声でしかもハッキリと★ゴミ=努力です!!!!!と答えた

そして結論に至った簡単な経緯を話した

そうしたら能田さんは「勝った」「勝った」と飛び上がって喜ばれた

良くそこまで、考えたなと、手放しの喜びであった

私の脱皮を自分のことのように喜んでくれた

その事が、昨日のことの様に鮮やかに蘇って、目頭が熱くなっている

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

後年、私が山に籠もって二度目の鱗が落ちたのも、また西田の国泰寺に参禅したのもこれ

が伏線であった

また「寶」の時も座禅を組んだ

乗り越えられそうも無い、大きな物事に行き当たった時、思い出したように座禅を組む

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そしていよいよ入札日が迫ってきた。

その時、妻が恐ろしい事を言い出した

共同でするため、能田さんとここまで来たのに、妻は能田さんを外し単独で入札する事を

私に強く迫ったのである

それまでの工作費の殆どは私が出したとは言え、知恵は殆ど能田さんであった

その能田さんを切る??????

裏切れと言う・・・・・・・

妻の言い分は能田さんに最後は乗っ取られる・・・・・

     ・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・

私は妻の話を能田さんに話した・・・・・・

能田さんはハハハハハハハハハハハと笑って、それで良いよと言った

     ・・・・・・・・・・・・・・・

私が反対の立場であったら、到底受け入れられない

・・・・・・・・・・・・・・・・・

その約10年後にも、お世話になった千里ブロック製造工場のK社長を切れと彼女は私に

迫った

この時は、同意した私だが・・・・今も心が疼く

能田さんは、その後も計り知れないご恩を賜った

しかし何十年私と付き合っても、以来妻とは一定の距離を置いていたのが分かった

彼女は人生に2度大切な人を裏切るよう私に迫った

そして彼女は、その能田さんは勿論、周囲の人間全てを欺き、最後には全ての賃貸オーナ

ーをも裏切って去った

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彼女を責めたりはしない、人間としての私の未熟さ監督不足、不徳であった

     ・・・・・・・・・・・・・・・

さて後日、永森助役の口から洩れた言葉であるが、我々の入札価格は次点であったと聞い

ている

惜しくも逃したのである

実は氷見駅の貨車の荷役を請け負っていた日本通運がその年の12月末ギリギリになって

参入してきたのである

原因は氷見駅の貨車乗り入れの廃止であった

当時日本通運が市のゴミ収集している支店は全国にも一箇所もなかった

落札価格は日本通運の人件費に合わせたと聞いた

私達の予想金額よりも、間違いなく日通の数値に引き上げられたのである

     ・・・・・・・・・

戦い終わって能田さんはしばらく会わないでいようと私に言った・・・・・・・

数ヵ月後に再会した時、能田さんはあれで良かったのだと一言いった

     ・・・・・・・・・・・

二人とも全力で戦った爽やかさがあった

当時、役所の入札資格に適合するため、車の洗車場、運送業の資格その他に金田、西川、

その他幾人もの協力を仰いだ

何十年経って、改めて感謝を述べたい

平成181219

 

このゴミ戦争で能田さんに教わった事が私の人生に計り知れない影響を与えた