生家の呉服店時代

 

腰痛でサラリーマンに見切りをつける頃、兄嫁が私の母、姑と折り合いが悪く子供2人を

連れて家を出た

その頃は傷ついた兄夫婦の心まで斟酌する器量は私にはまだ無かった

後を頼むと一言、兄は裸一貫波乱の人生に乗り出した

以来約30年間、亡くなる10日程前の病床を見舞うまで、酒を酌み交わす事も、お互いの

敷居を跨ぐ事もなかった

しかし最後の10日間で何十年の断絶は一挙に氷解、■長い言葉は要らなかった

私もまた、兄が家を捨てた4年後同じく家を出た

結局兄弟二人、裸同然で荒海に乗り出した

長い疎遠の年月、互いに負けまいと歯を食いしばってきた

二人とも結果としてそれで良かったのである

血は水より濃し、以心伝心、多くの言葉は要らない・・・・・・!!!!!!!!

阿吽であった

・・・・・・・・・・・!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

それはさておき、兄が家出た後の家業の衣服店は、経営上は最早商売の体裁を呈しては

いなかった

古着と新品、呉服と衣料が混ざる、田舎の万屋であった

専門店化が進む中、時代のニーズに全く合っていなかった

経営のトップが母親で大正生まれである

しかも母親は経験から培われた自分の経営に絶対の自信を持っている

母親は美的センスも極端に悪いまでとは言わないがお世辞にも良いとは言えない

まして時代の若者のセンスには全く時代遅れであった

父親は行商から身を引き、楽隠居同然、髪結いの亭主であった

口出しできる地位では無い

兄嫁がノイローゼ寸前になったのは、良く分かる

我が家の家風、祖父も父もそして兄も妻を本当に大切にした

譲歩しない世代の夫婦それがもたらした亀裂である

それはさておき、引継ぎ時の顧客は高齢化し、売り上げの8割程が貸し、売掛金である

集金は、盆暮れ

しかも店舗は、大型店や商店街の店に比べ、薄暗くダサイ、そして壁が剥がれ改装は待っ

た無しの状態であった

しかも母親が実権を握り、ようとしてお金を出さない

また主要な紳士服関係の仕入先も落ち目、呉服関係も安物が主の問屋であった

私は荒治療に乗り出した

紳士服の仕入先を若者向け、呉服は高級趣向の問屋に急速に代える事にした、

そして店の改装も専門工務店では坪当たり何十万円で到底無理と諦め、表具屋と大工さん

を個別に頼み、日を選び徹夜で仕上げてもらうことにした

工事の前の晩に、商品を後ろの部屋や廊下に移動し、剥がれた壁を一気に落とし、クロス

の段取りをしておく。

翌、定休日、大工とクロス一気に仕上げるまさに突貫工事であった

そしてその頃、岐阜の紳士服現金問屋の話を母親に聞き、現金を懐に息子の手を引き岐阜

に車を走らせた

30万程であったろうか、仕入れた品は2ケ月程で全て完売した

確かその後もう一回車を走らせた

また私はニット、ズボンその他の商品をライトバンに一杯積んで、園・大浦などの市営住

宅を売りに歩いた

兎に角客層を若者に切り替え、現金の回転率を上げるのに全力を傾注したのである

また、未集金、売掛金の回収率を上げるためそれまでの盆暮れを改め月末集金に転換した

のである

その頃は妻とも店の現状をどう変えて行くか、毎晩の様に話合った

大晦日31日、3年目にして初めて紅白歌合戦が見れるようになった

4年目にして税理士が漸くお店らしくなったネと言った

サラリーマンから一転しての衣服店である

私が人生で無茶苦茶に働いた第一波であろう、疲れて途中の車の中で、仮眠したことも度々

であった

今振りかえって、妻が一生懸命働いたと評価できるのは、人生で後にも先にもこの5年間

だけである

それはさておき、私達が兄夫婦同様、何故家を出たのか

それは、現在の事務所の土地を父親が生前贈与すると2度私に言った

それは最早家督は兄ではなく次男の私に譲る事に決定したとの表明であった

私はその気持ちだけで充分と固辞していたが、3度目には折角の父親の気持ちを快く受ける

事にした

ところが・・・・である!!!!!!!!!!!!!!!!何とその後沈黙する父親をいぶかって、登記簿を確認し

たら母親名義になっているではないか!!!!!!!!!!!!!!これには参った

当時どうして母親名義にしたのか親を正さなかったが、私は全てを悟った

次男は可愛いもの、しかし長男は大切なもの

可愛いものと、大切なものとは違うのである

母親の性格は死ぬまで所帯を渡す人間ではない

将来子供が大きくなって進学する頃、もし兄と同じ事態になったら万事休す

大きな不安と、母親に対する疑惑が私を襲った

既に市内に大型店が2店舗オープンしていた

呉服業は着物離れの影が少しずつ忍び寄ってきていた

それに、私は繊維関係に対する愛着も興味も元々薄かった

バブル崩壊を予見して、不動産の売買から賃貸業務に主力を切り替えたと同様、私の時代

を見通す第六感は当時から冴えていた

その頃流行った「易」の本に私は「土」に関係する仕事が向いていると書かれてあった

しかも会社を辞めた決定的動機が「日本列島改造論」であった

日本が本格的に騒がしくなる夜明け前であった

実は、妻の父親がサラリーマンを辞める頃、田んぼの境界ブロック、(通称・畦半ブロック)

を製造販売していた

所が畦半ブロックの売れ行きが思わしくなく苦肉の策で型枠を改良した新商品を開発した

それが後の千里ブロックである

近所の人に、原価に近い単価で23ケ所を施工しただけで、到底生活を賄う販売量では無

かった

元々電気関係の仕事をしていて、頭脳構造は理数系、販売は全く不得手、それまでも成功

した商売はゼロの人であった

電気製品を売るのに仕入れ伝票をお客に見せて売る程の人であった

後に後妻から聞いた話しであるがその当時200万円近い借金を抱えていた

私の妻、即ち娘の結婚祝いも無し、結婚式にも出席できない理由も納得なのである

いずれにしても、商売向きの人でない事は、若い私にも何となく分かった

サラリーマン生活に見切りをつけ、新しい世界に飛び込む決心をしたのは★@サラリーマ

ンに向かない自分を悟った事★Aヘルニアが悪化し仕事に耐えられなかった事である

そして新しい道に★@このブロックへの期待A失敗した場合の保険として家業の呉服店が

あった事である。

その頃、既に二人の子供がいた

家族を守るための、経験としての小さな失敗は許されても、致命的失敗は許されないので

ある

この呉服業の短い時代にも、自動車タイヤのねずみ講方式の販売に顔を突っ込んで、あえ

なく頓挫・・・・・・・。

★また次項で話す「椎茸販売」にも挑戦した

・・・・・・・・振り返って失敗こそが次のステップであった

若いながらも、商売人の血は更に熱くなっていた

多額の投資の場合、あらゆる事態を想定しながら進まねばならない

そんな警戒心は動物的カン、本能であった

腹の中で呉服屋に見切りをつけると、ブロックに突き進むための心の準備を徐々に開始し

ていた

それは現在の不動産家業そして「寶」にたどり着くための、運命の「道」であった

60年の波乱万丈の人生を振り返って、全ては越えて来なければならなかった山坂で

あった。

呉服店に次ぐ第二の関門、土木の時代に移る前に、呉服の時代に挑戦した「椎茸販売」を

語ろう

大きな挑戦の前の貴重な経験、前哨戦である

呉服の4年目間にも、自分の殻を破るべく試みをしていた。

 

                                                                          平成181213