サラリーマン時代 第二部

伏木支部編

 

神戸支部から伏木支部へ希望転勤である

陰で両親が伏木支部長に働きかけてくれたのである

実は日検に入社できたのも、母親と兄が裏工作してくれたことは知っていた

日検伏木支部の主要な取引先が伏木海陸運送であった。その伏木海陸運送の監査役が母親

の従兄弟であった

また兄の同級生もそこに勤務していた

社会に出て何十年間、疎遠にしていた兄であったが弟の私を何かと心配してくれていたの

である

それは横に置くとして、ともかく伏木港は神戸支部と違い、取り扱う荷物の種類が極端に

少ない

外国航路は旧ソ連の北洋材、フィリピン・ボルネオ・スマトラなどの南洋材

あとからカナダなどの米材もあった

また国内向け、秋田、留萌などへ日産化学の肥料、また23年韓国向けの国内余剰米を

取り扱っていた

日本貨物検数協会で働いていたのが約8年、その内6年が伏木支部である

神戸と違い取り扱い貨物が単一で正直私の仕事への魅力は急速に萎んで行った・・・。

実は希望転勤理由は結婚であった

伏木支部に転勤したのが20

結婚が確か22歳の7月頃であるから伏木支部に転勤して2年目である

結婚する為貯金ゼロであった自分が真面目考えて2年間で47万円を貯金した。

彼女は一才年下で中卒後2年制の経理学校を経て金沢で下宿しながら働いていた

3年間の女の給料のみである、持参金は17万。二人合わせて64万円である

それでも考えると現在のお金にすると470万と170万計640万円である

結婚式の総費用は15万円、新婚旅行が確か17万円であった

結婚式は今なら10倍として150万円の結婚式である・・・・・・!!!!!!!!!

相手の彼女は17才の時、母親が亡くなり、即父親は子供達に相談も無く再婚し、長男次男

も家督を継がない、複雑な家庭であった。後年分かった事であるが、彼女の父親は幼少期

に両親を亡くし極端に人間不信の性格であることが分かった。そのため親戚縁者は勿論、

訪ねてくる友もおらず、金銭的に極めて厳しい家庭の事情があった、そのような事情から

招待状は出したが空席であった・・・式にこぎつけるまで、彼女の家の問題、また私の親

との確執など色々の事があった

そんな訳で住まいは、伏木街中の一軒家、しかも28畳と小さな台所、共同トイレの

間借りからスタートした

当時のマアマアのアパートは5000円前後であった

しかし私は家賃が2800円の間借りに近い状態の貸し家に決めた。

彼女の家から持ってきたものは殆ど何も無い

鍋、窯、ちゃぶ台を買い揃えての文字通り、最小限の所帯道具からのスタートであった

それでも兎に角式次第を全て自前でし、何とか生活をスタートさせたことに満足していた

私は共稼ぎが嫌いであった。

その為6年間給料袋とボーナス袋、一度も封を切らずに渡した

禁煙2回、2年間好きなタバコを断った

私の小遣いは、上司が若い所帯を気遣い優先的に割り当ててくれた出張手当(年間78回位)

そして社内マージャンの収益であった

マージャンは高校時代から大好きであった

とてつもなく上手まで行かないが、マアマアの腕前で年間を通して負ける事は無かった

内心ねじり鉢巻、メンバーを選び、生活をかけた剣が峰の戦い、必死であった

その心が前面に出ては、同僚に嫌われる・・・平静を装いながらの社内マージャンで

あった。

そんな苦しい小遣いのやり繰りでも、上司同僚との付き合いは欠かさなかった

よく皆で飲みに出かけた

今でもその様なサラリーマン生活は胸に秘めた私の誇りである

今でも上司・先輩・同僚と職場に恵まれたと感謝している

78年前から、OB会が結成された、約35年前の私を誘って戴くのである

・・・・・・・

1年半程して親が生家の近くで中古の家を買い氷見に戻るようにと言って来た

結婚に至る前、嫁いだ姉の家の事情も絡んで私が養子に行くはめになっていた

その様な事情から親子の間がコジレタのであったが、背に腹は変えられず氷見に戻り、

その家に入ることにした

言葉に出さなかったが兄も親も私の事を心配していたのである

・・・・・・・・・・・

仕事に話を戻す

高度成長期、木材の消費は毎年拡大の一途であった

本船での仕事はワイヤーで吊り上げた、780本前後の本数を1日中、数える仕事である

また陸上では、その材木の石高を検量する仕事である

また南洋材は河港に繋ぎとめられた筏の上を飛び歩き、長さと口径の最大と最小を測り、

石数を算出する仕事である、

単調かつ立ちっ放し、また1日中、腰を曲げて検量する仕事である

殆どの者が程度の差はあれ腰を痛めていた

私は取り分け腰が弱く、この仕事は一生続けられないと明確に悟った

会社を辞める思いがつのる頃、ますます腰の状態は悪化し、しまいには猫の様に背中を

丸めて寝る毎日であった

その頃、生家では嫁姑の折り合い悪く、兄夫婦が家を出た

その頃、田中角栄が登場、著書で「日本列島改造論」をぶち上げた

商売人の子である、間違いなく日本が変わる、私は直感した

サラリーマンは私に向かない

腰も痛い、

父親も母親も自動車を運転できない

生家の衣服店を助けなくてはならない

兄夫婦が家を出てから半年近く、会社へ通いながら生家の手伝をした

その頃は会社と家の仕事かなりハードな毎日であった

辞職の条件は揃った

そんなある日の夕刻、私は妻に会社を辞めることを打ち明けた

決断したら私は早い

その晩、辞表を認めた

翌朝会社に遅れて出社する旨の電話を入れた

翌日8年間勤めて初めて、遅れて出社した

会社の上司は、その頃の私の心を既に読み取っていた

遅れて出社した私に1船のチーフ役に配置してあった

退社のはなむけの手配であった

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私は今でも海の男と思っている

今でも苦しい時、悲しい時・・・・・時々、伏木の港へ出かける

潮の香りとともに昔が懐かしく蘇る

今でも片言のロシア語、スパーシーボ、ドブルジェニー・ハラショーが口から衝いて出る

ボルシチ、黒パンも懐かしい

伏木支部労働組合の書記長にも選ばれた思い出のサラリーマン生活

神戸支部の皆さん、そして仲人の四柳所長はじめ、皆々様に心からありがとうを述べたい

さらば日本貨物検数協会JCTCであった・・・・・・・。

平成18129

 

  承禎の自分史、記憶を辿り現在原稿作成、点検中!!乞うご期待