三宮歓楽街の乱闘

 

事件は昭和40年の1210日過ぎ頃であろう

先輩指導員2人と山口水産高校から来た同じ新入生、名前は○○忠治と私、4人で三宮の歓

楽街に飲みに出た

既に4人共かなり飲んでいた

歓楽街はボーナスをもらったサラリーマンで賑わっていた

警察が歳末取締りに入っていた

先輩のWが行き交う4人連れの一人に肩が触れたと口論になった

そしてW先輩(多分)が先に手を出して殴りあいなった。先輩がやられる・・飛びかかる

ように加勢したのが忠治である

忠治は水産高校でも硬派で鳴らした男である

そうなると向こうも4人一挙に加勢して来た

私も向こうの動きに直ぐ反応した

こちら側の指導員のHは、絶対に喧嘩などに加わる人ではないおとなしい人である

34、形勢が不利で、一挙に袋小路に追い詰められた

私は街路の脇にあった角材(多分店舗の改装工事の木材)にチラリ目が行った

見るやいなや、さっと二本拾い「忠治!」と叫ぶと同時に投げ渡した

と同時に、二人とも相手の頭や顔、委細かまわず角材をメチャクチャに振り下ろす

血が飛び散りる・・・・乱闘が凄かったのであろう、周りは一挙に黒山の人だかりとなっ

た。と同時に記憶では数分もしないうち、パトロールの警察官が4人程駆けつけた

パトカーも来た

我々はその場で御用、即派出所に連れて行かれた

私は途中逃げようとして警官に足払いを喰い、ものの見事に体が空中で反転したのを今も

鮮明に覚えている

記憶が飛ぶ状態

私も相当酔っていたのであろう

交番所で、今度は私が主役!!!!!!喧嘩両成敗と警察官に喰ってかかった

今から思えば、相手は病院へ急行・・・・血気盛ん、若かったのである

警官に喰ってかかった事が決定的に警官の気を害して留置所で頭を冷せと、鉄格子の扉が

開き重い音がした

バターン

その分厚く重いドアの感じは今でも覚えている。

翌朝気が付いたら独房であった

細長いコンクリートに囲まれた部屋にトイレだけがあった

小さな明かり窓が上部一箇所だけ

目が覚めると角棒で殴りかかった事、警官の足払いで腰を痛打した事、警官に喰ってかか

った事、昨晩の事が断片的にしか思い出せなかった

朝食前、留置所の通路に整列させられ番号を呼ばれた。

そして独房に戻り食事を待った

ドアの横隅にある空き口から食事が差し入れられた

鼻に近づけると到底喰える食事ではない、物凄く臭い。とても食える匂いではなかっ

た・・・・・・・・私は食糧難の時代に育ったせいか、わりと昔から日数の経った少し臭

い飯でも、平気で食べた・・・・しかし正真正銘臭い飯、吐き気がする程であつた。

結局3日と半日、出された白湯と取調べの時に食べたうどんしか食べなかった・・・

そのうどんの美味しかった事、今でも鮮明に覚えている

調書作成の段階で、喧嘩の相手をマジックミラーごしに見た。50歳前後の土方風の屈強な

男達で、4人の内2人が頭に包帯を巻き、他の2人も顔にガーゼと絆創膏であった

・・・・・・・・・参った

ひとつ間違えばどうなっていたか??!!!!下手をすると殺されていかもしれない・・・・・

・・・・・・・・・・・

翌日私の独房に50才位の不精髭の大人が入って来た

郵便局員で封筒の現金を抜き取っていたと言う

     ・・・・・・・一挙に白髪が増え、血の小便が出たと言う

そのまた翌日大学法学部卒の、詐欺容疑の35才位の男が入れ替わり入って来た

私が留置所を出る時、和歌山の女の所に伝言を頼まれた

今は忘れたがその男は色々世間の裏話を話してくれた。

その男に私が利用されている事は分かったがそれでも約束は約束、女性のところに伝言の

電話を入れてやった・・・・・・

48時間の拘留が過ぎると少年院の方に回される仕組みらしい

取調べの移動と少年院係に回される時生まれて初めて手錠をかけられた・・・・

ショックであった

自分の出世も人生もこれで終わりと思った

まだ完全に子供であった(笑うに笑えない話である)

会社の上司が身柄を引き取りに来て釈放された。

戸外に出た時、外の景色がキラキラ光って見えた・・・・・・・・外の風景が違って見え

た。物凄い新鮮な感動を覚えたのを鮮烈に覚えている

昔青春のアイドルスターの太田博之が事業家に転身し何かの事件で逮捕保釈された。

その手記にも、外の風景がキラキラ光って見えたと書いている

まさに、私と同じ感動的光景なのである

高校時代、軟派でも硬派でもない自分、いい加減な高校生活を送ってきた延長線上・・・

今一歩で攻守所を変えたらどうなっていたか分からない

転勤で郷里に帰ってから風の噂で忠治が会社を辞め、ヤクザに入ったと聞いた

・・・・・・・・何十年が経った・・・・・今頃どうしているのか・・・・・・・

つまらぬ話、話さなくてもよい神戸での出来事であった   

以上

平成18129