楊貴妃のお寺と歴史の推理   必見!

 

神器・太極「寶」が1300年の時空を超え、現代日本に降臨した流転の歴史に関

し、今再び考察を試みるものです。

骨董商を営む人には、さまざまな人がいます。

「寶」取得前後、骨董の幾つもの市に足を運んだ経験があります。

「寶」を所蔵していた吉田翁が「寶」を手に入れた時期を勘案すると40代前半

頃です。

「寶」の買い取りを翁に薦めたと云う、骨董商は、翁に富山藩の廃藩置県の時

に売りに出され、それを買い取った富山の豪商がまた売りに出したもので出処

の確かな品物と、虚言した可能性もゼロでは無いと思われます。

先月、県立図書館に痕跡が無いかと足を運び、更に、富山藩主の菩提寺である

真国寺の御住職にも諸々お聞きしましたが、未だ歴史の彼方であります。

 

その一

「寶」本に、富山藩か、鎌倉五山の帰化僧か、銭屋五平衛の時代か歴史の彼方

と書きました。

はたしてそれ以外のルートは、無いのか、

歴史を大きく展望すると、古くから日本に秦の始皇帝時代(206)に渡来した徐

福伝説があります。

徐福伝説の痕跡は西日本各地にあり、かなり信憑性の高い伝説です。

755年、徐福伝説から約450年下って、山口県長門市に真言宗龍伏山ニ尊院に

楊貴妃が辿りついたと云う伝説の寺があります。

(450年間とは家康が江戸幕府を開いたのが1603年で、本年の2017年まで414

年です)

創建の記録は807年で、遣唐使・最澄の開山と伝えられ、江戸初期毛利家の祈

祷寺として栄え、幾多の兵火・天災等に遭い、現在の寺観となったと伝わりま

す。

楊貴妃が「寶」を携え流れ着いた可能性は、徐福伝説同様ゼロとは云えません。

そこで今一度、「寶」の原点に帰って、千里の彼方を透視し、「寶」の旅路を辿

る事としました。

そして今月15日〜3日間、楊貴妃を祀るニ尊院に向かいました。

 

その二

安禄山に謀反を起こされ、楊貴妃が玄宗皇帝と長安から一緒に蜀へ逃げる途中、

駅舎の馬蒐で絞殺されたと云うのは史実なのか。

それとも危機を脱し徐福伝説と同じ日本に辿りついたのか。

二尊院は楊貴妃が駅舎で殺されずに窮地を脱し、日本に辿りついたと云う伝説

の寺です。

実に興味ある言い伝えです。

言い伝えを史実と想定して、想像を広げますと安史の乱に長安を放棄し蜀へ逃

げる時、洛陽の玄元皇帝廟から『寶』が玄宗の元に届けられ、難を逃れた可能

性が十分に考えられます。

「寶」安置の玄元皇帝宮は杜甫の詠う一節のように、24時間厳重な警護であっ

た、唐朝の宗廟です。

神官や特別警護隊も配備された皇城と同格・いや、それ以上の大唐の宗廟です。

安禄山謀反の一報と戦局は、刻々長安・洛陽、相互に早馬で伝令されます。

賊軍安禄山の拠点は現在の北京周辺で、洛陽からは約700kmの距離がありま

す。

怒涛の進軍であったと伝えられる約20万の賊軍は、最速でも洛陽に迫るまでは

20日はかかるであろうと思われます。

長安と洛陽の距離はインターネットで調べると約450kmでその差は約250qで

す。

高校時代、福井の東尋坊まで片道約150qを、友達と自転車で、21時間で走破、

し、帰着した経験があります。

京都まではその倍の300qで、勘案すると氷見市から明石市あたりの距離であ

ろうかと思われます。

ですから、駅舎から早馬で乗り継ぎ伝令すれば、2日ないし3日で情報は届いた

筈です。

安禄山が挙兵する頃、既に楊国忠に謀反を疑われていたのですから、その報は、

刻々長安・洛陽にもたらされていた筈です。

神器・太極「寶」は、延人員何千万人を投入し、30年を費やし完成なった唐朝

の宝器です。

神器は天下の覇者、象徴の宝器です。

それを、放棄して玄宗皇帝が逃げる事は絶対に有り得ません。

手のひらに載るほどの大きさの神器「寶」です。

賊軍の報は、玄元皇帝宮の神官・警護隊に届けられていた筈です。

「寶」は大混乱の洛陽から、早馬を乗り継いで玄宗皇帝の手元に確実に届けら

れていたと考えるのが順当です。

太平に慣れた皇軍と、実戦を積んだ賊軍と、その結果は明らかです。

長安の生命線、北の関所、潼関は遂に破られ、かくて玄宗と楊貴妃は「寶」を

抱え、大混乱の長安を捨て、蜀に向かって蒙塵したのです。

杜甫が戦乱のあと、神器「寶」が奪われた事を悲嘆して歌を詠んでいます。

しかし、安禄山の賊軍が神器を奪ったのか、玄宗が先に懐に入れて逃げたのか

は、杜甫には知る由もありません。

杜甫は「寶」が安置された玄元皇帝宮に、賊軍が来て徹底的に破壊し火を放ち、

既に廃墟になった情景を詠んだのであります。

神器・太極「寶」が完成なった天寶元年は、帝国挙げての大祝典を挙行しております。

ですから天下の覇者がもつ神器である事は安禄山も十分すぎる程知っていまし

た。

安史の乱は神器「寶」の争奪戦でありました。

神器「寶」を手にすれば、全軍の志気は高まり、「形勢は一挙に傾く」

当然安禄山は一直線に玄元皇帝廟を目指した筈です。

しかし「寶」を守護する神官や警護隊により、既に「寶」は難を避け玄宗の手

元に届けられていたのであります。

今一度安禄山が発行した@「得一元寶」A「順天元寶」の意味を考えます。

@   は天下の覇者が持つ、唯一の「寶」を得た事を、天下に宣言する銭文です。

A   は、「寶」を得た、よって戦乱は終息に向かった、天下は順天と宣言する予

定の銭文です。

今日この二つの銅銭はインターネット・オークションに出品されます。

テレビ・ラジオの無い時代の「情報戦」であります。

「寶」の@Aの銅銭は現在の北京周辺で時々大量に出土するそうです。

北京周辺は安禄山の拠点でありました。

戦端を開く前に、勝利した時の準備に戦略貨幣をあらかじめ大量に鋳造して

いたのです。

安禄山の側近に唐朝の政治全般に通じた智者がいた事をビデオ「楊貴妃伝」は

教えてくれます。

いずれにしても、この天下の覇者象徴の「寶」の貨幣を、事前に用意した事自

体、安史の乱は、神器「寶」の争奪戦であった事は明白です。

その事に着目して書いた歴史書を筆者は一冊も目にしてはいません。

お粗末であります。

愚生と「寶」解明時には余りに広範な分野と、膨大な検証に忙殺され、推理

の濃淡・枝葉な錯誤があったのも事実であります。

 

その三

玄宗と楊貴妃が逃避行したとき、楊貴妃の姉とその一族、そして宮中の女官も

一緒につき従い総勢は約2000人と歴史は語っております。

その時、玄宗は71歳、楊貴妃は38歳で、年の差は33でした。

歴史は高力士が絹の布で絞殺したと伝わります。

高力士は玄宗に何十年仕えた宦官です。

玄宗の心中を読む能力は尋常ではない筈です。

宦官の高力士は、玄宗の目・唇・顔の表情。七癖で、心を読まなくては、勤ま

りません。

付き従う近衛兵(禁衛兵)は、奸臣・楊国忠とその一族、楊貴妃の親族全員を

惨殺し、玄宗から称号を賜わった「韓国夫人」はじめ二人の姉、その子息も全

員惨殺しました。

さらに、随兵が激昂し傾城傾国の元凶と目する楊貴妃の殺害を、隊長の陳玄礼

に迫り、窮状を悟った楊貴妃は仏に今一度手を合わせる許しを乞うたと伝わり

ます。

絞殺場所は別棟の御堂にて行い、立ち会いは高力士と女官だけと伝わります。

楊貴妃と女官の入れ替えは十分ありえます。

検死の立ち会いは高力士と陳玄礼だけです。

陳玄礼も玄宗と楊貴妃を完全かつ永遠に切り離す条件なら文句は無い筈です。

情報は錯綜し、皇軍は各地で抵抗し奮戦中です。

もし劣勢を跳ね返し皇軍が勝利した場合の自身の安全も考えておかねばなりま

せん。

「高力士と陳玄礼の密約は瞬時に成った。」

「随兵には楊貴妃絞殺の報告は、隊長の陳玄礼で事足りる。」

かくて楊貴妃は窮地を脱し、数人の宦官・女官達と共に馬蒐を去ったのです。

インターネットの楊貴妃伝によると、楊貴妃が窮地を脱した可能性を幾つか述

べています。

@   処刑は外傷の無い絞殺の手法を取った事。

A   高力士は、玄宗皇帝は勿論であるが、楊貴妃にも特別な感情を持っていたの

ではと記している。

B   絞殺の現場は高力士以外誰も見ていない事などなど

そして『寶』が現実に手元にあるのであるから、この等の推論も現実味をお

びて来る。

 

その四

時計を戻すと、洛陽から馬蒐に向かう馬車の中で玄宗は自責の念で苦悶する。

「寶」は30年を費やした唐朝の神器で有る。

大唐の数年分の国家財政をつぎ込んだ、承天の大寶である。

この神器「寶」には、大唐安泰の完璧の呪文が秘められております。

「寶」の印面寸法には犯すべからずの大唐の国土、永遠の「九」数位を秘めた

寸法です。

東西には日月・北は北極星・南には南極星を配当し、東西南北を中華の軍神と

崇める「孫子」に永遠に警護させる布告と祈?もした。

そして太極・完璧・神の九文字を鎮護するのは有徳の帝王の御世に現れる神獣・

獅子「白澤」である。有徳の帝王は己自身であった筈。

焼成の27年間、昼夜を問わず道士達を交代させ護摩を焚かせ大唐の安寧と神器

の悲願を読経した筈。

重ねて印面は大唐の国土、その寸法は永遠の九数位の九寸である。

しかし、今、大唐の国土は侵犯され、長安から蜀に向かって蒙塵している。

後続の伝令によれば、賊軍は宗廟、玄元皇帝宮に火を放った。

易占革命・神器「寶」の神通力は失われた。

「寶」=皇帝、それはまさしく玄宗自身である。

悲嘆まさに自責の念、玄宗は烈火の如く「寶」を地面に叩きつけた。

その時、楊貴妃が咄嗟に玄宗に身を寄せた。

それが投げつける力を削ぎ衝撃を和らげた。 

   

欠損した「寶」を抱き拾ったのは、楊貴妃でした。

「寶」を救ったのは地球上に一点も無い超高密度な「寶」自身と楊貴妃です。

「寶」の印面の欠損は、玄宗の激怒の衝撃です。

自身の傍にいる聡明な楊貴妃は、この「寶」が何十万人動員し、焼成に携わっ

た陶工達の祈りを知っている。

この時、「寶」に対する盲信は消え、未練は無かった。

「寶」への怒りは己自身への怒りであった。

安禄山が謀反を起こす前、楊国忠はじめ重臣の諫言を聞き入れなかった。

全ては「寶」に対する己の盲信と不明であった。

放心の中に深い悔恨があった。

楊一族郎党は全て惨殺された。

それでも飽き足らず、随兵は楊貴妃の死を要求する。

いかに楊一族への恨みは凄かったか、玄宗は初めて己の不明を悟った。

しかし玄宗は片時も離れず身を案じる楊貴妃だけは救いたい。

楊貴妃に何の落ち度も無い事は玄宗が一番知っている。

楊一族を取りたてたのは、全て己である。

楊貴妃には自分しか頼るべき術がない身である。

たった一人の愛する貴妃の命すら守れないで、何の皇帝であろうか。

健気に自分に尽くす貴妃の命だけは、何としても助けたい。

この窮地から、徐福伝説に伝わる、東海の国に逃してやりたい。

皇帝とて、一人の人間である

「助けたい」その一心であった筈

玄宗とて、今のおかれた状況は四面楚歌、充分過ぎる程理解している。

玄宗は私より純情一途な人間である事は間違いない。

いやそれは玄宗の皇帝としての誇り、最後の意地であった。

深謀遠慮、知略に富む高力士は、その玄宗の心底を、全て察知していた。

 

その五

昔、印台の欠損部分を見て、この大唐の神器が何故欠けているのか、膨大な資

料に埋もれて思索が及びませんでした。

もし安禄山が取得していたなら、即刻粉々にするか、晴れて天下に示す祝典か、

二つに一つである。

長安を占拠したとはいえ、戦況がまだ治まっていない。

「寶」を粉砕するなら、名実ともに皇帝即位の大祝典の面前である。

安禄山の側近に唐朝の政治に精通した者もいる。

的確な進言をした筈である。

しかし「寶」は難を逃れた。

玄元皇帝宮の神官や警護隊は身に代えても守る。

万一「寶」の取り扱いに粗相があって欠損や紛失したなら、咎めは五族・九族

に及ぶ。

間違いなく、「寶」は駅舎を乗り継いで、早馬で玄宗のいる長安に送り届けられ

たとみるのが、順当である。

 

その六

ここで、「寶」の流転に関わる、高力士・安禄山の心の暗部に触れて見たい。

歴史は様々な人間の心が綾なすものです。

一説に故宮・美女三千人と伝わります。

その並みいる三千人の宮女の中に、群を抜いた百花の妖精、牡丹の花が楊貴妃

でした。

歌舞音曲に優れ、無欲で天真爛漫、愛らしく気品に溢れ、天女さながらであっ

たと、長恨歌は詠う

安史の乱の頭目は安禄山。

その安禄山も絶世の美女楊貴妃に、思慕を寄せていた事を、唐代誌が「フオー

カス」している。

安史の乱の時、楊貴妃は38歳の女ざかり。

玄宗と楊貴妃の養子になって、後宮に出入りを許された安禄山と楊貴妃がただ

ならぬ関係であったと、当時の『文春』は記す。

玄宗と楊貴妃の年の差は33歳、玄宗は71歳である。

生身の男女である。それとて不思議ではない。

安史の乱は、安禄山の楊貴妃への熱い思いが発火の原因の一つでもあった。

高力士もまたしかりである。

楊貴妃を市井から最初に見出したのは高力士であった。

高力士は宦官である

宦官は、欲望を断ちきられた、非人・無色透明な、中性生物である。

それだけに、相手の心の裏側を読む、人間洞察は常人では無い。

彼は歴史・文化・芸術そして詩歌に精通した、教養人でもあった。

また玄宗の詔勅の多くを書いたのも高力士で、優れた策士でもあった。

大唐を築いた玄宗皇帝の影となる、その危機予知能力も、尋常ではない。

心の洞察なくして歴史は語れない。

宦官であるが高力士には妻も妾も持ち、情欲はゼロでは無い。

高力士もまた妖精・楊貴妃に密かな思慕を寄せていたのである。

自然には四季の花がある。

花を愛でた高力士の目には、楊貴妃のカンバセと肢体は、四季の花々、その百

花の王が楊貴妃であった。

絶体絶命の窮地にも、楊貴妃を逃す策と手配は既に打っておいた。

欠損した「寶」は楊貴妃の旅路の守り神である。

 

その七

現代はインターネット時代である。

「ニ尊寺」以外、楊貴妃が熊本の天草に、字が楊貴妃と云う地名が存在して、

そこに漂着したと云う伝説がある。

その資料は、楊貴妃が日本に漂着し得たか現代、海洋科学を駆使して、歴史と

合わせ検証している。

要約して観る。

楊貴妃、馬蒐の真相として

@  「新唐書」「資冶通鑑」「長恨歌」いずれの史書も、高力士が近衛隊長・

A  陳玄礼に身柄を渡さなかった事で一致していると云う。

B  玄宗皇帝が楊貴妃の遺体を見ていない事も一致していると云う。

そして高力士の最後の秘策として陳玄礼に密かに国外に逃がしのではと云う。

駅舎馬蒐から天草の経路を説明している。

@       から5キロの近くに黄河が流れている。

黄河を通して東シナ海の河口まで短時間で移動は可能であった。

A       長江は馬から80キロの近くまで、支流がのび、これまた短時間で

東シナ海沿岸まで移動出来た、二つの経路の可能性を云う。

 

インターネット資料によると当時の唐を取り囲む、国際情勢は複雑で国境付近

のウイグル・吐蕃・契丹が勢力を強めていて、その方面では殺されるのは必至

であったという。

また新羅が唐軍を駆逐していて朝鮮半島を統一しつつあって、半島方面に逃す

ことも危険であったと云う。

高力士の国際情勢の感覚は鋭い。

さらに中国沿岸から、日本に漂着する気象庁の海流データ―を載せて、その可

能性が高いと記している。

また近年、天草地方の漂着物のペットボトルを調べると23%が中国製であると

云う。

中国沿海州から比較的遅い船でも、5日で日本に到着出来ると云う。

帆の無い、筏でも最短20日で到達できると云う。

今日、中国でも楊貴妃が日本に亡命したという説が根強く存在するという。

「寶」が日本にもたらされた経路が、かなり現実味をおびて来た。

天草か、ニ尊寺か思索は大きく膨らむ。

ニ尊寺は毛利藩で、江戸時代加賀藩と北前船で交易が有った。

今日に花開く、加賀文化の隆盛を築いたのは、美術工芸品の好事家、藩主前田

家代々である。

天草の唐津藩主・毛利藩主どちらも御大家・前田家に、所蔵の「寶」を進物し

た事も十分ありうる。

さすれば、1300年前の中国馬蒐から前田藩・富山藩そして我が町氷見市まで歴

史の糸が一本に繋がる。

 

その八

「寶」の時代は、秦や漢の時代では無い。

遣唐使の時代である。

日本と中国の往来は、盛んであった。

玄宗時代4回の遣唐使船派遣されている。

ちみに遣唐使船は一隻に約100人で4隻編成の船団であったと云う。

歴史に記されない、遣唐使船以外、交易船は、琉球・台湾・唐の沿海州にも行

っただろう。

確かな事は、皇帝権力しかあり得ない、人類史上一点も無い未曽有の「寶」の

存在である。

そして印面には、未来の超ス―パーコンピューターでも創造と解析不可能

の文言が刻まれてある事である。

「寶」は、現代も昔も道義無き中国を嫌い、万里の波濤を越えて、現代日本に

降臨したのである。

そして「寶」は、万葉歌人・大伴家持が遊んだ日本一の獅子舞のメッカ富山県

氷見市に辿り着いたのである。

これは小説の世界では無い現実なのである。

目の前にある獅子印「寶」は、どのような経路を辿ろうが、厳然たる現実であ

る。

「寶」の九文字と同様、和漢太極「寶」歌もまた、何億分の一の奇跡、そのこ

と自体が「寶」の厳然たる史実の裏打ちと自負する。

歴史家は、人類史上未曽有の陶磁器「寶」を前にして、愚生の推論を論破でき

るか。

「寶」の戦いは、日本国の威信を賭けた戦いである

今、書斎の一隅に牡丹の花が一輪、見事に花開き、静かにほほ笑む。

馬蒐から加賀藩そして獅子舞のメッカ氷見市まで一本の歴史の糸で繋がったか、

検証と是非は、今後の研究者の手に委ねたい。

 

たれか知る とわの天原

ふみこえて

天寶降臨  世にしめさんと

 

平成29517  

 

 

推論資料

新旧・唐書「楊貴妃伝」

資冶通鑑

杜甫詩選・岩波書店

「宦官」顧蓉著

銭屋五兵衛  若林喜三著(北国出版社)

ビデオ「楊貴妃」

インターネット

真言宗龍伏山「ニ尊院」楊貴妃伝

楊貴妃{天草漂着}伝説

その他