平成26年10月入力忘れ

清朝地図その二

 

考えれば考える程、謎は深まる

そして、この地図との不思議な縁を感じる

この清朝の地図を骨董の市から持って来たのが、友人の宮川氏である

その呉羽の骨董の市に奥さんと一緒に確か2度程連れて行ったのが承禎である

食事処氷見浜の開店の飾り品、お店の調度品を探しに連れていたのである

そして数年後承禎が忙しくて、その市に行けない時に、宮川氏が単独で行ってセリ落とし

持ち帰って来たのである

宮川氏の談によれば、市元のオヤジさんが古い掛け軸など、買った品に付けてタダ同然で

持ち帰ったとの事である

その付属のマルかった掛け軸の中に紛れていたのである

市元の丸豊のオヤジさんは若い頃、承禎の家の近くで食べ物屋をしていて、その縁で富山

市内の不動産の商売をさせて戴いた縁で知り合った

その頃「寶」本でオヤジさんとは長く疎遠になっていた

それにしても、この地図はもの凄いものである

どんな旅路を辿って来たのか・・・・・・・!

清朝建国は1636年で実質1644〜1912まで中国とモンゴルを約268年間支配

した征服王朝である

もし1644年に基になる最初の地図を10年程で制作した場合、今日から換算すると

(2014年)約360年前の地図である

地図左下方に上海の租界地が載る

イギリスとの阿片戦争で敗れた結果、租界地が南京条約で定められたのが、1842年で

ある

その場合、約172年前の地図である

また清朝が滅亡したのが1912年であるから最短で102年以上前の地図である

即ち、この地図は1636〜1912年の276年間の間に何度か再製版されたものであ

ろう。

大陸進出を狙う、イギリス・ロシア・欧米列強そして日本と虎視眈々と大陸を狙われる清

朝に取って、この地図は超国家機密であった筈である

日本でも江戸時代、日本地図は幕府の超機密事項であった。

確か江戸時代、宣教師フランシスコ・ザビエル?!により流失した責任を取らされて切腹

を命じられた侍を読んだ事があった!!!

現代の様な、衛星写真、航空写真などの無い時代である

しかも大型コピーも当然ない

これ程詳細な地図は想像であるが制作に現代の金額に勘案すれば50億は費やしたであろ

うと思われる

当時中国に大型輪転機が有ったのか??????

日本の江戸時代である清朝政府が外国あたりから輪転機を購入していたのか

承禎の乏しい知識では分からない

また何部制作したのか

これだけか????????????!!!!!!!!!!

日本の公文書館や国土地理院に保管して有るのか

いずれにしても清朝が国の威信をかけて制作したものであろう。

列強に取って、喉から手が出る程欲しい清朝帝国の地図である

都市・町・村の名前、山・川・砂漠などが詳細に載る

列強が大陸を進撃する場合、町と町との距離、障害となる河川、山・砂漠その他重要機密

である

恐らく、この地図の制作過程で都市・町・村の人口の付属資料を作った筈である

明治の日本軍か????!!!下って関東軍が手に入れたのか???!!!

謎・謎・謎である!!!

この地図は現代にでも通用しそうなくらい詳細である!!!

しかも、現代中国共産党政府にとっても、300年以上前の古い地名が載る

古い地名など、清朝初期の調査とすれば、300年前で有る

現代の中国政府にとっても、政治的そして文化的にも貴重な史料である

共産党政権下、恐らく省・郡・町などの再編で、その線引きも相当変遷した筈である

最低で約100年以上である。現代の各地の中国最高齢の老人に尋ねても、分からなかっ

たり知らなかったりする、地名が相当ある筈である

いずれにしても、清朝はアヘン戦争・日清戦争を戦い、清朝が倒れ日中戦争そして、国民

党と中国共産党の内戦!!!この貴重な地図は、動乱の敵味方争奪の超戦略地図である

戦車や大砲、何個師団の兵員より重要な超戦略兵器であったろう

今日、この地図が共産党政権に残っているのか、それさえ疑問である!!!

承禎の手元に舞い込んだのも奇跡的である

天の意思ともおもえる「寶」の不思議な出会いに連動した天の意思のように思える

いずれにしても、この地図に「寶」焼成の窯場と推定する河南省の寶豊県が載る

この地図は中韓と文化的に戦う承禎の戦略上貴重な地図でもある

遼東半島周辺地図は興味津々である

日本政府の関係機関に届ける価値は充分にある

日本は外交上の戦略をもたない

敵を知って己を知って戦うもの百戦危うからず!!!!孫子の兵法である

地図に尖閣が載っていない

マア、地図の事はここまで、後は専門家に譲ろう

今日は結構真面目な原稿となった

平成26109