「占領下の東京」 佐藤洋一     から

 

図書館入荷本です

今年の読書数を100冊突破に決めたら、急にこの様な写真、図解入りの本で、数を増やそ

うとせこい考えになった(笑い)

でも、こういう記録写真集は見ていて下手な本より、なかなか考えさせられるのである

占領下でありながら、米兵と写る子供達の顔の表情が明るい

写真の子供達は、今なら私より5才〜10才位年上の人たちである

氷見は空襲にあっていない

よく考えると私は小学校6年生頃まで、日本が戦争に負けたと祖父母から一度も聞いたこ

とが無かった

商売家であり、結構人が訪ねて来た、しかし祖父も父親も訪れた人と、敗戦の事や政治の

事を話題にした事が無かった

関心が無かった訳では無い、商売人は政治と信仰の話はタブーなのである

今思うに祖父も父も、なかなか考えて生活していたと思う

その点、自分は天下御免、軽率の極みである

・・・・・・!!!!!!!!!!!祖父も父もあの世で嘆いているであろう!!!!

今思うに当時の氷見での敗戦の影響は、日々の食事位であろう

生卵1個を割って、分けて食べた事、雑炊、麦飯、それに毎日食べるサツマイモ、鍋一杯

のカボチャ、イワシのすり身、鍋一杯のオカラ

その後遺症、今でも芋、カボチャ、すり身が苦手である

それと、鉄くず集めがお金になった事を覚えている

それでもそれらが、敗戦のせいとは、全く分からなかった

おかしな話である

その頃白黒テレビが近所に入って来た。

そうそう思い出した、近所の友達とよく映画を見に行った。

目的の映画の前段に必ず朝日か毎日のニュースがあり、今思えば戦争の映像がかなりあっ

確実に戦争の映像を目にしていた筈であるが、サツマイモやカボチャ、オカラが敗戦と結

びつかなかったのである(笑い)

頭が悪かったのである

ちなみに間違いなく私は一時軽度の栄養失調であった

アフリカの子供のように腹が異常に膨れていたのをハッキリと覚えている

それでも、我が家は明るかったし、母の笑いがあった

父も母も元気で働き、我々は一度もヒモジイ思いをした事が無かった

私の祖父は永年、仏生寺村役場の書記官をしていた

別に公職追放の話も聞かなかった

多分その頃は退職していたので関係なかったのであろう

GHQも見た事が無かったし、話も聞かなかった

だから、同時期でありながら、この本の写真が何となく不思議な光景になって見えるので

ある

しかし本の中の写真は間違いなく、自分の幼少期から子供時代なのである

写真の中の子供に親を亡くした子供も確実に載るであろう

自分は幸運と思わずにはおれない

写真と図解それに解説と半々の小誌であるが、諸々昔を考えさせる著書である

以上

                                                             平成18124