「寶」解明の序曲(八)

 

初版本が平成9年であるから、約20年前程である・・・。

私が大阪天王寺にある大阪市立美術館・現(みの)(ゆたか)副館長を知ったのはNHKに出演してお

られたのを、たまたまテレビで拝見したからに間違いは無い。

「寶」本執筆、本格突入の1年程前です。

蓑副館長はアメリカのシカゴ美術館の東洋美術部部長を経て大阪市が次期館長として招

請された期待のお方であった。

私は正直、日本の公立美術館の関係者に「寶」の鑑定や評価を戴けるとは頭から考えてい

なかった。

過去に加藤唐九郎の「(えい)(にん)(つぼ)」事件、また「ガンダーラ」の事件を私は記憶していた。

また、私は不動産業に入る以前、土木建築の仕事を通じて役人の対応の悪さに全く不信感

を持っていた。

これは私の性格的問題も起因していると、この年になって多少反省するのであるが、

兎に角(とにかく)、相性が悪い。

しかしテレビを拝見しながらアメリカ帰りの蓑館長(当時は副館長)に何となく親近感を

感じたのです。

確か蓑館長が北陸の金沢出身である事もよけいに相性を感じたのであろう。

私は数日後、早速美術館に電話を入れると蓑館長は気さくに電話で応対戴き、会って頂く

旨の了解を戴いた。

私は翁から託された「寶」と「瑠璃(るり)の壷」持って即、大阪へ車を飛ばした。

今から思うに恐らく超多忙な日々であったろうと思うのです。

兎に角、蓑館長の執務室で早速「寶」を見て戴いた。

そして蓑館長は見て直ぐ“焼成不可能”・・・・・・軽々に言えないが中国の自然石も想

定しなくてはならないと言葉を続けられた。

私は陶磁器を実際に焼いた経験は無い。

その時、蓑館長が一見して、どうして“焼成不可能”と切り捨てられたのか私には直ぐに

は理解できなかった。

兎に角、衝撃的な一言であった。

館長の目は(かたわ)らの瑠璃の壷に完全に注がれ、興味津々(きょうみしんしん)であった。

短い時間であったが、私に取って“焼成不可能”この言葉は衝撃的一言であった。

私はその言葉を頭の中で何回も繰り返しながらまっしぐらに引き返した。

後年「寶」解明の本をお送りした。

深い敬意を払うお言葉を賜った。

そして2・3年前全国博物館会議議長の重責に就かれたことを新聞で知った。

ある意味、蓑館長の一言が「寶」本執筆を、一気に加速させ“歴史を開いた”と言って過

言ではありません。

平成19225