京浜工業地帯生みの親

浅野総一郎

 鶴見の工業地帯は,広大な埋立地に立地している。大規模な埋立地をはじめて造成したのが,

浅野総一郎である。そのため,総一郎は京浜工業地帯の生みの親といわれている。


生い立ちと成功するまで

 浅野総一郎は嘉永元年(1848),富山県で生まれた。6才で父を亡くし,養子に出されて苦労しな

がら成長した。
 明治4年(1871)24才の時,所持金37円で上京し,手はじめに元手もかからない水売りを始め

た。後に横浜へ移り,みそ・しょうゆ屋へ奉公した。そのころ,もち菓子やすしを竹の皮に包んで売

ることに目をつけ,竹皮屋を開業した。
 明治6年,総一郎は薪炭・石炭の販売へ転じ,神奈川県庁や今の王子製紙などの大口の得意

先を得て成功する。このおり,渋沢栄一に認められたことが,大事業家として成功する大きな転機

であった。
 その後,横浜ガス局が処分に困っていたコークスの利用法を考えて販売したり,横浜で最初の公

衆便所を設置して,その人糞処理の権利を得,肥料として売りさばいて大きな利益を上げた。


浅野セメントの創設

 事業家として名を上げた総一郎は,渋沢栄一の紹介で,休業同様の官営セメント工場を払い下

げてもらった。この工場の経営改善と資本投入により,販売実績を大きく伸ばすことに成功した。こ

の会社が後の浅野セメントで,浅野財閥の基幹産業となった。
 このころから,炭鉱,石油の輸入,肥料製造,造船などへ投資して,さまざまな事業にたずさわる

ようになった。

 

<写真は建設中の浅野造船所>



臨海工業地帯に着目

 総一郎は明治29年に海運業に進出し,航路の選定と汽船発注のため,欧米の港湾都市を視察

して回った。彼が目にしたのは,海に面した地域には大工場が立ち並び,岸壁には船が横づけさ

れて,原料や製品の積み下ろしが能率よく行われている光景であった。これを見て総一郎は,臨

海工業都市が今後の日本経済の発展に必ず必要になると確信した。
 帰国後,東京と横浜の間の海岸を何度も調査した結果,交通の便がよく,遠浅で埋め立てやす

い鶴見の海岸を最適地として選んだ。
 明治41年,神奈川県に鶴見・川崎の地先約140万坪(457万m2)の埋立計画の認可を求めた。

大工事のため県は難色を示したが,安田財閥の安田善次郎の協力を得て大正2年(1913)によう

やく着工,昭和になって当初予定の埋立地が完成した。
 総一郎は教育にも関心を寄せ,大正9年に子安台に浅野学園を創設した。この台地には総一郎

の銅像が立っている。昭和5年82才で亡くなった。広大な墓所が総持寺にある。

<写真は浅野総一郎の銅像、 右手にステッキ、左手に望遠鏡、

<ポケットには地図が入っている>